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ことばひろい

機関誌より『ことばひろい』を掲載しました。

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第13回:『 ことばにならないことば 』
小さき群の里 副施設長 中嶋隆

2015年3月15日発行(機関誌115号)

ことばにならないことば

私は1962年に奥中山で生まれ、ずっと奥中山で育ちました。その頃の奥中山は、農業と酪農が盛んな地域でした。 小さい頃の記憶の中では、駅前通りを馬や大きな種豚が歩いていたり、鉄道は蒸気機関車、3輪トラックが道路を走っていたように思います。 冬は寒さが厳しく、朝起きると部屋の中に雪が入っていたこともありました。

同級生の中に、8年前の5月に亡くなったカナンの園を利用していた山下祐子さんがいました。 小学校の入学式も卒業式も一緒、教室も一時期一緒でした。彼女の性格は明るくお話が大好きで、授業中も時々周りをほっとさせてくれるあたたかな人でした。 小学校に特学が併設されると、祐子さんと一緒の教室ではなくなりましたが、小学校を卒業し中学に行ってからも修学旅行で同じ班だったことを覚えています。 1981年にみたけ養護学校奥中山分校が開校しましたが、それ以前は奥中山の子どもたちはみんな、カナンの利用者のみなさんと同じ教室や学校で子ども時代を過ごしました。 その当時、私たちはハンディーを持った子と同じ教室、同じ校舎で学ぶことを意識したことはありませんでした。 彼らと過ごすことの心地よさや熱心に関わってくれる先生のことを心から信頼していたのだと思います。みんな同じではないこと、 正直に生きることなどたくさんのことを自然に学ばせてくれた貴重な時間だったように思います。

当時、奥中山学園、三愛学舎の職員のみなさんは、地域の家庭に下宿していた方も多かったと聞いています。 私の家にも、ギターを弾くこととランプで沸かすコーヒーが大好きな上崎さんが下宿していました。 古い家でふすま1枚の隣同士の部屋、水しか出なく、冬は台所のストーブの上でお湯を沸かし顔を洗うような生活でした。 勉強が苦手な私に教えることは難しかったようでしたが、スキー場などに連れて行っていただき、良い思い出しかなく、子ども心に奥中山にはない雰囲気を持つ上崎さんにあこがれを感じていました。 こうして私自身がカナンの園の職員となって、先輩職員の人たちは地域の中で会った人はもちろん、動物たちにも頭を下げなさいといわれたと聞きました。 カナンの園のみなさんが地域にとけこみ、地域も受け入れてきたのだと思います。

カナンと地域のつながりは時代とともに変わってきて、開設当初の形を継続することは難しいと思われますが、職員が消防団活動等を積極的に行ったり、運動会、お花見、球技大会などに参加したり、 地域のお店やサークル等を利用して相互のいい関係は見られています。 そして、利用者の方々と一緒に奥中山を歩いていると地域の方々が利用者の方々に名前を呼んで手を振ってくれたり、旧知の仲間として話しかけてくれることがあります。 それは小・中学校を同じ校舎で過ごしたからならでは、と実感しています。開設当初も今もカナンの園という名前や施設が地域をつなげるものでなく、利用者とそこで働く私たちが地域の方とつながっていき、 絆が深められることは変わらないと思います。

私は今までたくさんの人たちの出会いがあり、カナンを利用されている人たち、そこで働く人たちとの出会いもありました。 その中で、いつかは人と関わる仕事をしてみたいという気持ちを強くしていったように思います。そして、29歳のときに、小さき群の里で働く機会が与えられ、かつて一緒に学んだ懐かしい顔を見、 元気な姿に触れてうれしい気持ちになったことを覚えています。働き始めた頃は、不安の中での仕事でしたが、初めて利用者と心がつながったと感じた瞬間や保護者の言葉、 仲間や先輩職員と過ごした時間は、今の自分の宝物になっています。同級生だった山下祐子さんは平成19年5月に46歳の若さで亡くなりましたが、 彼女の家には祐子さんが中心にいてみんなで手をつないでいる写真があます。祐子さんの幸せそうな様子から、彼女のことばにならないことばが伝わってくる、とてもいい写真です。 「奥中山」という地域がこの地に生きる一人ひとりに大切なものを育んでくれていることを教えてくれているように思います。

私はカナンの利用者、そこで働く人たちとの出会いがなかったら、また違った人生を歩んでいただろうと思います。 カナンで働いて22年、喜びや悲しみ、日々いろんなことがありますが、幸せと感じ感謝の言葉しかありません。 今50歳を過ぎ、今までいただいたものを人に返せるよう心にとめながら、この奥中山の地で過ごしていきたいと思います。

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