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ことばひろい

機関誌より『ことばひろい』を掲載しました。

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第10回:『 導かれる 』
生活支援センター 副センター長 猪又平

2014年3月15日発行(機関誌112号)

導かれる

私がカナンの園で働き始めてから15年が過ぎようとしている。 子ども好きだった私は、奥中山学園での職場実習で知的障がいというハンディのある子どもたちが明るく楽しそうに生活している姿、 その子どもたち一人ひとりへ「家庭的な生活を…」と願い、温かく思いやりのある支援をしていた職員の方々の熱心な姿に衝撃を受けた。 その奥中山学園で働けると聞いたあの瞬間の喜びは今でも忘れられない。

当時の私に先輩方がよく話しかける言葉があった。「猪又さんも導かれてここに来たんだね」「神様のお導きがあったんだね」と。 私は奥中山学園に来るまで、キリスト教や聖書に触れる機会もなく、「導かれる」という言葉の意味が全くわからず、自分で選んできた道なのに、と反感を覚えた。 しかし今、奥中山での15年を振り返り思うのは、自分の想いや願いだけではない”何らかの大きな力”が働き、今の自分があるということだ。 人と出会い別れ、時に笑い喜び、時に迷い悩み、時に苦しみ、時に哀しみ、その全ての想いを言葉で表すなら「導き」であったように思うのである。

15年前に私と一緒に奥中山学園に入園してきたY君との出会いもそうであったように思う。大柄な体格で身長も体重もほぼ一緒、一人っ子で甘えん坊なところも一緒、あまりに似ていたので、可愛い弟ができたと思える程であった。 もちろん違うところもあって、人懐っこくて溢れんばかりの明るさは周りの人を幸せにしてくれる程の力があり「明るく! 楽しく!元気良く!」がぴったりくる太陽のような存在であった。

そのY君が三愛学舎本科3年生の4月に、最愛の母親が病気で亡くなられた。母親の容体が急変したとの知らせを受け、私はY君と共に母親のもとに向かった。 父親も祖母もすでに来ており、ベッドの周りで大声で語りかけているところだった。人の死の間際に立ち会うことが初めてだった私は、ただただその場にいることしかできなかった。 そんな私の姿にY君は「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と声をかけてくれた。父親や祖母、看護士の方々へも同じ言葉を何度となくかけていた。頬を流れる涙をハンカチで拭いてくれた。 どれくらいの時間が経ったのだろうか、Y君の母親が静かに天に召されていった。

その後、私はY君と共に寄り添いながら、親族の方々と一緒に火葬・葬儀に参列した。Y君は母親の死をどのように受け止めているのだろう。 仏壇の前で母親の遺影をポツンと眺めている姿が思い出される。「お母さんは?」と祖母に何度も尋ねていた。突然、最愛の母親がこの世からいなくなる寂しさに寄り添うことも共感することも私にはできなかった。 私にできるのは、傍にいてあげることしかなかった。

私が担っている仕事がどういうものなのか、福祉という仕事がどういうものなのか、改めて責任の重さを考えさせられた出来事となった。 私たちは奥中山学園で暮らしている子どもたちと共に過ごし、数年ではあるが子どもたちやそのご家族の人生の貴重な時間を共に歩ませていただく。 卒園後の生活についても共に考え、共に悩み決断しなければならない。裏を返せば、自分の支援の仕方や方法で、人の人生が決まってしまうこともある。 Y君とは5年間という時間を共に過ごさせてもらった。その時々に自分に問い続けたことは、Y君のお母さんならどう思うだろう、どう願うだろうということであった。

その後、小さき群の里や生活支援センターで働く場を与えられた私は、これまで何人の支援をさせていただいたことだろうか。また、そのご家族との関わりも忘れることはできない。 期間の長い短いに関係なく、その一人ひとりとの出会いがあったからこそ、今の自分自身があることは間違いない。それはただの偶然の出会いだったのかもしれない。 しかし、私は決してそうだとは思えない。その一人ひとりとの出会いはきっと何かの力で「導かれた」と信じている。当時の私には理解できなかった”導き”があったように思う。

Y君が卒園・卒業して10年が過ぎようとしている。現在は地元の福祉事業所で働き、ケアホームで元気に生活をしている。

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